高橋博之(たかはし・ひろゆき)
株式会社雨風太陽代表取締役。1974年生まれ。2006年から岩手県議会議員を2期務め、その間に東日本大震災を経験。岩手の復興を自らの手で行いたいと、県知事選に出馬するも、次点で落選。そのまま政界を引退し、事業家として岩手の復興を目指す決意をする。「世直しは食直し」の理念のもと、NPO法人東北開墾を立ち上げ、世界初の食べもの付き情報誌「東北食べる通信」を発行、編集長に就任。毎月、生産者のロングインタビューとともに旬の食材が送られてくるその仕組みが、大好評を博し日本全国から海外まで50の地域に展開した。2015年NPOを母体とする株式会社を起業し、生産者と消費者を直接つないで旬の食材の売買ができる産直ECアプリ「ポケットマルシェ」をリリース。2022年、社名を「雨風太陽」に変更し、翌年上場を達成した。著書に『都市と地方をかきまぜる~「食べる通信」の奇跡~』(光文社新書)など多数。
日本で初めてのインパクトIPOを成し遂げた、株式会社雨風太陽。同社を立ち上げたのは、元岩手県議会議員である高橋博之氏です。彼は東日本大震災後、都市部からやってくる復興支援ボランティアと交流する中で、あることに気づきます。それをきっかけに「震災前から東北が抱えていた、過疎化・高齢化といった問題を解決するアイデアが生まれました。それは地方の人たちだけではなく、都市に住む人たちを救うものでもあります。私たちが忘れてしまった、主体的な生き方とは。「生をむさぼり尽くしたい」と語る同氏の言葉から考えます。
都市と地方をかきまぜる
僕は、岩手県議会議員を2期務めていました。東北は、農業や漁業といった一次産業で経済の多くが成り立つ地域です。自然相手の仕事は厳しく、若者の県外流出は止まらず、過疎化・高齢化が進んでいました。この課題を何とかしなくてはと、機械化による生産規模の拡大や、生産法人化などを推し進めようとしていました。
そんな時、東日本大震災による津波が東北の沿岸部を襲いました。被災者の多くは、自然とともに生きてきた高齢者です。破壊され尽くした故郷を見ても、ほかの土地で頑張ろうと考える人は少ない。ずっと生活を支えてくれた海があり、祖先が拓いてくれた土地があり、祖先のお墓もそこにある。何世代にも渡ってつながれてきた命の延長線上に、自分がいる。だから、故郷に帰らないといけないんです。
いま(2024年3月取材)、能登でも「集団避難」「全村移転」が話題になっています。「安全な街で暮らせばいいのに」というのは、都市に住む人の考え方。自分が育った土地でしか生きられない人はたくさんいます。
そうした点からも、東日本大震災後の復旧は急務でした。しかし、同時に過疎化・高齢化した街を、そのまま元に戻してもいずれは廃れるということもわかっています。震災前の状態にただ戻すだけではなく、課題を解決しながら復旧することが大切だと思いました。
自然を相手に大変な仕事をしてきた東北の人たちは、自分の子どもたちに都会行きを勧めます。地域おこし協力隊でやってくる若者には、「何もないところに来て、何が楽しいのか」と言います。地域への愛情は人一倍あるのに、その魅力が都会の人に伝わるとは思っていないんですね。
ところが震災後、僕は不思議な光景を目にしました。津波ですべてを失った被災地に東京の人たちがボランティアに来て、元気になって帰っていくんです。
僕はずっと岩手の課題を考えてきましたが、ボランティアの人たちに話を聞くうちに、都会の課題も見えてきました。隣に住む人の顔も知らない孤独感、満員電車に揺られる長い通勤時間、働いても働いても楽にならない暮らし。何より都市にはたくさんの人がいて、「常に評価の視線にさらされている感じがする」と言います。
対して、地方には相互扶助の精神が生きていて、近所はみんな顔見知り。通勤は家の隣にある畑までで、貧しくても食うには困りません。先祖伝来の土地で広い家に暮らし、ゆったり生きています。都会から来たボランティアの人たちは、そんな田舎の人たちと一緒に汗を流し、喜んで帰っていきました。
その時、「都市と地方をかきまぜればうまくいくのではないか」と思いました。昔は、生産者と消費者は顔を合わせて売買をしていたのでしょうが、今は間に流通業者が何層にも入ることで、生産者と消費者、田舎と都市には距離が生まれ、分断が起きています。その結果、双方にまったく違う課題が生まれて、どちらも解決できずに困っている。だとしたら、都市と地方の人間をかきまぜることが課題の解決につながるのではないかと考えたんです。
生産者と消費者をつなぐことで起きた化学反応
最初に取り組んだのが、旬の食材を届けるサブスクリプションサービスです。食材だけではなく、毎月1人の生産者のストーリーをじっくり取材した「東北食べる通信」を一緒に送ります。
消費者は、その食材がどんな人の手でどのように育てられたのか、背景を知ることができます。コスパで選ぶスーパーの買い物とは違い、大切に育てられた命を食べていると実感できます。
僕自身、素晴らしい仕組みができたと思いましたし、都市と地方をつなぐことで生まれる成果も実感できました。けれど、このサービスでは毎月1回、1人の生産者さんの想いしか知らせることができません。年間12人しかご紹介できないのでは、課題解決のスピードがあがりません。
そこで、生産者さんに自分で自分のことを語ってもらうことにしました。農業・漁業に従事する人たちと、消費者を直接売買でつなげる仕組みを作ろうと思ったんです。そのためには、専用のECアプリが必要で、アプリの開発にはお金がかかります。それまでNPOとして活動してきましたが、株式会社を立ち上げて資金を調達し、「ポケットマルシェ」というアプリをリリースしました。
すると、いろんなことが見えてきます。まず、生産者はあまりに消費者を知らないということ。商売をする人なら、お客様の声を聴き大切にすることは基本です。けれど、第一次産業の生産者は、そもそもお客様に直接会う機会がなく、自分の商品の適正な価格もわかりません。いくらなら買ってもらえるのか、アプリに登録する段階になって初めて考えるんです。
消費者の側にも嬉しい変化がありました。アプリを使い続けるうちに、自分がいいと思った商品を、周りの方や、知り合いのレストランにお勧めしてくれる人が増えたんです。生産者さんの専属応援団が生まれたようなことで、予想もしていなかった化学反応でした。
「ポケットマルシェ」で買い物をすることで都市と地方にコミュニケーションが生まれる。都会暮らしで知らなかった農業や漁業の裏側、生産者さんたちの普段の暮らしなどを知ることができるんです。その結果、年の人達が実際の生産現場を知りたいと、僕らが企画する「おやこ地方留学」に参加し、田舎を体験しに来てくれる。都市と地方がかきまぜられるようになったんです。
全国の生産者8000人のネットワークができるまで
僕らは、今でこそ上場企業になりましたが、起業した時からずっと順風満帆だったわけではありません。僕らのやっていたことは、売りたい人と買いたい人をつなぐマッチングアプリです。これは、ある程度の会員数がいて初めて成り立つものですが、自然を相手に仕事をしている人たちは良くも悪くも前近代的で、「スマホで出品して、売れたら勝手にお金が入ってくる? そんなうまい話、詐欺じゃないのか?」と、参加してくれません。
ビジネスモデルを説明しただけでは信用してもらえない。だから、僕という人間を信用してもらうために、10年間で全国を8周しました。
まず、訪れた先の生産者さんにお声掛けして、座談会をします。このアプリで何ができるのか、僕がやりたいことはどんなことで、これを使えば皆さんにどんないいことがあるのか、1時間くらいしゃべってから、質疑応答の時間を設けます。そのあとは宴会場に移動し、杯を酌み交わして一緒に酔って、翌朝、船に乗せてもらったり畑を見せてもらったりする。
そうしながら何年か経ったとき、新型コロナのパンデミックが起こります。これが、結果的にポケットマルシェにとって追い風になりました。都市の人たちは通勤の時間が無くなり、外食を楽しんでいた時間が消え、代わりに家で過ごす時間が増えました。それまでポケットマルシェを知ってはいても、アプリを使う時間的な余裕がなかった人たちに、お取り寄せと調理をする余裕が生まれたんですね。
生産者の側にも、いい影響が生まれました。大手飲食チェーンと契約していた農家さんなどは大ダメージを受けていたのですが、ポケットマルシェを利用することで、買い手が見つかります。生鮮食品は成長を待ってくれませんから、売りたいときに売れるシステムはとても喜ばれました。運よくメディアで紹介してもらえたこともあって、登録者数が70万人を超え、生産者も8000人の方が食材を販売してくださるようになりました。
アートな生き方を取り戻す
ポケットマルシェで都市と地方をつなげることはある程度できたと思いますが、僕のやりたいことは、もっと先にあります。地方の過疎化は止められない流れですし、人口減少もこのまま進んでいくでしょう。だとしたら、人が減った日本でも回せる仕組みを作るしかありません。400年続いた江戸時代の日本の人口は、3000万人ほどで安定していました。それでもやってこられたのだから、少々減ったところで問題はないはずです。右肩上がりに増えていくことを善いことだと思い込み、人口増加に対応するシステムしか用意していないから困るんです。
僕はこれから、人口減少、過疎化、高齢化に対応するための仕組み作りのビジネスを展開していくつもりです。そのためにも、都市と地方がそれぞれの役割を取り戻し、より多くの交流をしなければいけません。
都市は昔から、人が集まる場、異質なものが出会う場でした。言葉も文化も違う人たちが、コンフリクトしながら熱が生まれる。そのことによって新しい自分の可能性に気づく。これが都市の最大の魅力です。
一方で、地方の持つ役割は「アート」への回帰です。日本の経済が35年間停滞していた最大の理由は、アートへの眼差しの不足だと思います。アートとは、芸術や文化に限りません。それを生み出す個人の主観そのものがアートです。
僕が「都市と地方をかきまぜる」といったとき、「そうだね、都市と地方は分断している」と応える人は多くありませんでした。少しずつ同じように感じる人が集まってきたわけですが、「東京にはこんなに人がいるのに、田舎にはいない」ということを不自然だと感じたのは、僕の主観です。ビジネスのスタートは、主観の表現。そこに多くの人が共感するんです。
都市に住むビジネスパーソンも、もっと自分を表現するべきです。「こんなこと言ったらみんなから笑われる」「恥ずかしい」。都市に広がる評価の視線を気にしているんです。それを横に置いて、「気持ちいいな」「楽しいな」「これ面白いんじゃないかな」、ポッと芽生える気持ちを表現する。自然には上下がなく、そこに評価の視線はありません。みんな違ってバラバラで、それぞれに存在価値があります。
都市と地方、どちらが良い悪いではなく、バランスが大切です。いまは、両者ともに偏り過ぎているのが問題です。都市と地方はコインの裏表のような関係で、どちらかだけでは成り立ちません。
都市の人は、長期休暇の間は地方で暮らしてみるとか、定年を引退と決めつけず地方で技術を生かして生涯現役として第二の人生を生きていくとか、子どもの教育を気に入った土地で受けさせるとか、地方とのかかわり方はいろいろあります。
僕らは、旅行でも移住でもない、その土地と長く細くかかわり続ける「関係人口」を増やす取り組みを進めていきます。そのことによって、地方には都市から多様な人が流入し、テクノロジーも入ってきます。住む人は少なくても、「賑やかな過疎」を実現できるはずです。
生をむさぼるように生きる
先ほどお話ししたように、東日本大震災の後、都市からボランティアに来てくれた人は、「常に評価の視線にさらされていると感じる」と口にしました。そんな環境で暮らしていて、本当に自分のやりたいことができているのでしょうか。
一方で、地方の人たちは東京で暮らしたことがないから、とにかく東京は華やかで、自分たちの住んでいるところは貧しいと考えます。しかし、自然には同じものがありません。森や川は、隣町に行くだけでも姿を変える。土地固有の自然から生まれるものは、世界でそこにしか存在しないんです。これだけさまざまなものがコモデティ化して機械化も進み、人間も代替可能になった世の中で、「唯一無二である」ということは大きな価値です。
どんな場所にいても、主体的に生きることはできます。しかし、何か悪いことがあれば、行政のせいにする人もいます。かつて、地域の課題はみんなで力を合わせて解決するものでした。それが明治維新を経て、勤勉に働いて税金を収めれば、国が課題を解決してくれるようになりました。
国民を納税者とすることが、国として物理的に豊かになるための最短の道だったことは事実です。しかしそのプロセスの中で、多くの人たちが社会的自発性を吸収されてしまいました。気づいたら、みんな観客席に座って文句を言っているだけです。そこから長い時間が経ち、もうどうやってグラウンドに降りればいいのかもわからない状態です。
僕のモットーは、自分の人生を主体的に生きることです。「自分はこれが好きだ」「これをやりたいんだ」と主張しながら、それを叶えていきたい。何となく生きるのではなく、生きることに執着したい、生をむさぼり尽くしたいんです。多くの人に、もう一度主役の座へと戻ってほしい。自分の人生の価値を自分で握ってほしいと思います。