山梨から全国へ。社会性と経済性を両立した事業で成長する、障害者雇用率日本一の上場企業

  • 株式会社フレアス 澤登 拓

「嫌で嫌で仕方がなくて」19歳で故郷・山梨を離れ、金沢、中国、東京と外の世界を渡り歩き、未開拓だった訪問マッサージ業界を仕組み化。実家の応接間から始まった事業を、全国450拠点の東証上場企業へと育て上げたフレアス代表の澤登拓さん。

外の世界を本気でやり抜いたからこそ初めて芽生えた「地元が好きだ」という想いを原動力に、現在は山梨イノベーションベース(山梨IB)の代表として次世代の起業家育成に尽力。上場企業社長としての視座と、地元を耕す一人の実践者としての顔を両立させています。

今回は、そんな澤登さんに、ローカルグロース・コンソーシアム発起人の荻原猛が、地方からイノベーションを起こす本質や、全国と地元の両方に居場所を持つ生き方の秘訣について伺います。

【スピーカー】
澤登拓(さわのぼり・たく)
1969年生まれ、山梨県出身。東京医科歯科大学修士課程修了。病弱な幼少期を過ごすが、北京中医薬大学に留学し東洋医学を習得、また自身の健康を取り戻す。帰国後、あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師の国家資格を取得。2000年に実家の応接間を拠点に訪問マッサージ事業を開業。2002年に株式会社フレアスを設立し代表取締役社長に就任。2019年に東証マザーズ上場。現在は全国458拠点を展開。2015年やまなし大使。現在は一般社団法人山梨イノベーションベース(山梨IB)の代表としても活動し、地元・山梨の起業家育成と地域活性化に取り組む。EO(Entrepreneurs’ Organization)メンバー。

【インタビュアー】
荻原猛(おぎわら・たけし)
株式会社ロケットスター代表取締役社長 CEO。中央大学大学院戦略経営研究科修了。経営修士マーケティング専攻。大学卒業後、起業するも失敗。しかし起業中にインターネットの魅力に気付き、2000年に株式会社オプトに入社。2006年に広告部門の執行役員に就任。2009年にソウルドアウト株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。2017年7月に東証マザーズ上場、2019年3月に東証一部上場。2022年3月に博報堂DYホールディングスによるTOBにて100%子会社化。博報堂グループにて1年間のPMIを経てソウルドアウト取締役を退任。2023年4月に株式会社ロケットスターを設立し、代表取締役社長 CEOに就任。50歳で3度目の起業となる。

嫌で嫌で仕方なかった山梨を、19歳で出た

荻原:澤登さんの学生時代の経験や体験が今につながっているのではないでしょうか。生まれ育った山梨という土地に現在どういう思いをお持ちなのか、幼少期の経験がどんな影響を与えたのかについてお聞きしたいと思います。

澤登:実を言うと、当時は「一刻も早くここを出たい」という思いしかありませんでした。子供の頃に十二指腸潰瘍で手術をしてからずっと体調が優れず、さらにいじめも経験して……。自分を取り巻く環境がどうしても好きになれなかったんです。

だから19歳で念願叶って山梨を出てからは、20代はほとんど地元に帰りませんでした。移り住んだ金沢は、文化があって、街並みも素敵で。もう、楽しくて仕方なかったですね。まさに「時代を謳歌している」という感覚で、金沢での暮らしを満喫していました。でも30代で戻ったんです。

澤登拓氏

荻原:一度離れたからこそ、フラットに向き合えるようになったのでしょうか。

澤登: そうですね、あのタイミングで離れたのは本当に正解でした。
一度外の世界で思いっきり自分を爆発させて、発散しきってみたんです。そうしたら、自分の中に最後に残ったのが「やっぱり地元が好きだな」という思いでした。あんなに嫌いだったはずなのに、いざ起業しようと考えたときに浮かんだのは、地元の風景だった。

振り返ってみると、実家には戻らなくてもお墓参りだけは欠かさず行っていたんですよ。
人とのつながりを「縦糸と横糸」に例えることがありますよね。横糸は、今この時代を一緒に生きている友人や仲間。一方で縦糸は、ご先祖様から自分へとつながる歴史。

自分の中のモヤモヤがすっきりしたとき、「この縦のつながりも大事にしたい」という気持ちが自然と湧いてきたんです。当時は無意識でしたが、今思えばそれが山梨に戻ってきた理由だったんだなと感じています。

業界に飛び込んで知った「ひどさ」と、経営を持ち込む意味

荻原:起業しようと思ったきっかけを教えてください。

澤登:中国に行って、体が弱かったので漢方に出会って元気になったんです。これを日本に持ち帰って仕事にしようと思って、免許も取って、よし地元でやろうと。でも最初はお金がなくて接骨院に就職したんですが、ひどい職場でした。
給料は10万円で、「見て覚えろ」で全然教えてくれない。初日に針を打ったとき、3本打ったまま抜き忘れてしまったり。翌日その人から連絡があって、真っ青になりましたよ。教えてくれないし、フォローもない。自分が夢を持って飛び込んだ業界がそういう状態で、夢も希望もないと思いましたね。

荻原: その過酷な経験が、かえって独立への強い動機になったのですね。

澤登: 負の連鎖じゃないか、と。こんな嫌な思いをするなら自分でやったほうがましだ、という感じでした。それが31歳のときです。

荻原: まだ「経営」という概念が浸透していなかったニッチな業界に、組織としての仕組みを持ち込もうとされた。

澤登: 医療業界って、介護も含めて、あまり経営が入っていないじゃないですか。教えてくれない、給料は安い、長時間労働で超ブラック。でもそこに誠実に、きちんと経営として向き合えば必ず変わると思っていました。実際、仕組みと教育を持ち込んだら事業として成り立ち、発展していった。地方の老舗企業も同じだと思っていて、名前はあるけど経営が弱い、という会社に経営の力を入れると蘇るという話があるじゃないですか。業界も地方も、構造は似ているんですよね。

「座頭市」の史実と、500人の視覚障がい者が戦力である理由

荻原:上場後も、数多くの業界団体で活動を続けていらっしゃいますね。現在は、複数の会長職も務められていると伺いました。

荻原猛氏

澤登:はい。マッサージ協会の会長や山梨IBの代表など、現在は4つほどの会長職を掛け持ちしています。お声がけいただくと、つい断りきれなくて(笑)。ただ、こうした活動を通じて業界の歴史を改めて掘り起こしてみると、実は非常に奥深い世界であることに気づかされます。

荻原:鍼灸マッサージの歴史は、江戸時代まで遡るそうですね。

澤登:ええ。例えば「座頭市」という名前は、個人の名前ではなく、実は「座頭(ざとう)」という役職名なんです。江戸時代の徳川幕府は、視覚障がい者に対して保護ではなく、自立支援を積極的に行っていました。そのため、マッサージや琵琶などは、視覚障がい者に優先的に開かれた職域だったのです。

彼らは技術を磨き、やがて70もの階級を持つ一大勢力へと成長しました。最高位の「検校(けんぎょう)」ともなれば大名クラスの待遇で、実際に目の見えない大名が数多く存在した時代でした。座頭はその階級における現場のリーダー。つまり「座頭市」とは、最前線で戦う男を指す言葉なのです。

また、劇団などを指す「座」という名称も、この流れを汲んでいます。両国の杉山神社に祀られている杉山検校は、盲目でありながら徳川綱吉の主治医を務めた人物です。彼が綱吉から授かった土地に建てたのが、世界初の盲学校でした。こうした日本発祥の文化がアジア全域に広がったという、誇るべき歴史があるのです。

しかし、戦後のGHQ進駐を経て西洋医学優先の時代となり、業界の地位は下火になってしまいました。そこから80年間、業界全体が「食えない」状態が続いてきた。私がかつて就職した接骨院で月給10万円だったのも、そうした構造的な背景があったからです。

荻原:その歴史の延長線上に、現在のフレアスによる視覚障がい者の積極雇用があるのですね。澤登:現在、社員1,500人のうち約3割が視覚障がいを持つ方々です。これだけの規模で視覚障がい者を雇用している上場企業は他に例がなく、東洋経済の「障害者雇用ランキング」でも1位に選出されました。

山梨で開催された地域の祭りにて

ただ、私たちとしては、いわゆる「障害者枠」として雇用しているという感覚は全くありません。視覚に頼らない彼らは、手先の感覚が極めて鋭敏です。日常的に点字を読み、指先の感覚を24時間訓練しているようなものですから、マッサージ師としての適性は圧倒的に高いのです。

実際、弊社の売上上位10名のうち半分は視覚障がいを持つ社員ですし、3年連続でトップを走っているのは、全盲の原くんという社員です。彼らは慈善事業のために雇っているのではなく、私たちが「プロフェッショナルとして必要としている人材」なのです。歴史を紐解けば、この業界は本来、彼らが主役となって支えてきた世界。その誇り高き流れを、現代で再び引き継いでいるという自負があります。

「引っ込んでろ」と言われた山梨IBを、5年かけて根付かせた

荻原:上場という大きな節目を越え、改めて故郷である山梨と向き合おうと思われたのは、何がきっかけだったのでしょうか。

澤登: 50歳を過ぎたという年齢的な節目も大きかったですね。山梨でグロース上場している企業は、実はまだ2社しかありません。上場後、久しぶりに山梨という地に目を向けてみると、東京との格差に愕然としました。車でわずか1時間強の距離でありながら、「同じ日本で、経営を取り巻く環境(情報)がこれほど違うのか」と。正直なところ、今の山梨は「もったいない、損をしている」と感じてしまったんです。

ネットを通じて情報は届いていても、やはり「生の情報」は別物です。本当に価値があるのは、人と人との出会いではないでしょうか。その貴重な出会いや環境が山梨には届いていない。私自身、東京に出て「EO(起業家機構)」などのコミュニティに入り、揉まれることで自分を変えることができました。そうした変化のきっかけが地元にないのがもどかしく、東京と山梨を繋げたいと考えるようになったんです。

荻原: 20代は自分のために、30代からは仕事に心血を注ぐ。その地続きの先に、地元への貢献というステージが見えてきたのですね。

澤登:20代はがむしゃらに自分のために時間を使い、30代からは徹底的に仕事と向き合ってきました。そうして一つの山を越えたとき、年齢的な重なりもあり「地元に何か返したい」という想いが芽生えたんです。そうして活動を続けていたら、いつの間にか会長職が4つになっていました(笑)。自分で選んだというよりは、お声がけをいただいたことに「分かりました」と応え続けてきた結果ですね。

荻原: 新しい風を吹き込む「山梨IB」の立ち上げは、最初から順調だったのでしょうか。

澤登:いえ、全くそんなことはありません(笑)。地方にはいろんなしがらみがいい意味でも悪い意味でも残っていて、変化を起こそうとすると「そんな事をする必要があるのか。」と、批判的な反応もあり正直、残念に感じました。一方、熱心に伝えていくと応援してくれる方も徐々に現れてきました。

山梨IBの熱いメンバーとともに

それでも、折衝を得意とする理事が懐に飛び込んでくれたおかげで、5年という歳月をかけてじわじわと浸透していきました。マッサージ協会でも同じような反発がありましたね。「急成長した会社は何か悪いことをしているに違いない」「我々は搾取されるんだ」と、ものすごい抵抗感を持たれたんです。

結局、20年という時間をかけてようやく7割の方に受け入れていただいた感覚です。当時、協会でアンケートを取ったところ、会員の20%は月の「売上」が20万円以下という厳しい現状がありました。収入ではなく、売上です。その世界に上場企業が参入してくるという話は、当時の皆さんにとっては、確かに受け入れがたい未知の恐怖だったのだと思います。

ラジオで喜ぶ両親と、「全国の自分」と「地元の自分」

荻原: 地元での活動を続けていく中で、特に印象に残っていることはありますか。

澤登: 私の両親が面白いんですよ。私が上場したことよりも、山梨のローカルラジオに出演していることの方をずっと楽しそうに話すんです(笑)。日経新聞に載ったとか、東洋経済に取り上げられたといったニュースはスルーなのに、「ラジオ聴いたよ」と。

両親はそれを本当に喜んでくれる。全国を舞台に活動している自分と、地元で活動している自分。両方の顔がありますが、地元での響き方は他とは全く違いますね。地元で商売を広げるというよりは、一種の「還元」のような気持ちで取り組んでいます。

荻原: 東京とは違うスケールの喜びがある、ということですね。

澤登:まさにそうなんです。山梨IBの活動でも、赤字で入会してきた会社が成長してEOへ昇格したり、静岡で開催されたLEC(地方起業家カンファレンス)で山梨IBのメンバーがピッチで受賞したりすると、本当に嬉しいんです。

最近では、お寺の檀家不足という課題に対し、民泊への転換で再生を目指すという提案をされた佐藤さんという方が受賞されました。そうした仲間の成長が、まるで自分のことのように嬉しい。そうした喜びが、今の私の地方活動における大きな原動力になっています。

経済規模より豊かさを。山梨に描くビジョン

荻原: 地域の魅力を外へ発信していくことについても意識されていますか。

澤登:東京に出てみて改めて気づいたのは、「山梨は本当にいいところだ」ということです。今、私は東京で子育てをしていますが、正直に言って東京は子育てがしやすい環境とは言い切れません。私たちが子供の頃、放課後に夕方まで外を駆け回っていたような体験をさせるのが難しいんです。

そんな思いもあり、改めて山梨の八ヶ岳に家を買いました。週末を自然の中で過ごしているのですが、これが本当に素晴らしい。……実は軽井沢よりもおすすめですよ(笑)。まだ土地も手頃ですし、東京から車でさっと来られますから。最近では東京の星付きレストランが移転してきたり、大手芸能事務所のアミューズが河口湖に本社を移したりといった動きもあります。

山梨の自然を仲間と堪能

「田舎には何もない」ではなく、田舎ならではの圧倒的な自然という価値がある。しかも都心からわずか1時間半という距離。今、山梨はそうした魅力の再発見が起きている場所なんです。

荻原: 食の面でも、甲州ワインなどはすでに世界レベルの評価を得ていますよね。

澤登: ええ。知人の「グレイスワイン」では30代の女性醸造家が世界一に輝きましたし、約300年続く酒蔵の「七賢(しちけん)」も、代替わりを経てアラン・デュカスに採用されるほどのレベルに達しています。ワインも日本酒も、そしてレストランも進化している。都会とはまた別の、豊かな楽しみ方がここにはあるんです。

さらにリニア中央新幹線が開通すれば、品川からわずか20分。リニアの駅から富士山をトラム(路面電車)で繋ごうという構想もあり、これが実現すれば山梨のあり方は大きく変わるはずです。

荻原:澤登さんが今後成し遂げたい理想の世界観について教えてください。

澤登:山梨を、心から「豊かな生活ができる場所」にしたいと思っています。それは決して、東京と経済規模を競い合うということではありません。例えばフランスのように、経済だけでなく食や芸術といった文化そのものが豊かな状態を目指したいんです。

軽井沢や葉山も、経済活動の中心地ではありませんが、非常に豊かなブランドを確立していますよね。八ヶ岳や山中湖、ひいては山梨全体が、食と自然を享受できる「豊かさを感じるブランド」になっていけたらいいなと。

南アルプス近くに住む方々は、贅沢にも天然水でお風呂に入っている。そんな土地本来の豊かさの上に、新しい食文化やアートが融合していけば、たとえ経済規模は小さくても、人々の生活が真に潤う地域になれるはずです。八ヶ岳をアートの街にする動きも始まっていますし、私はその流れをさらに加速させていきたいですね。

山梨の山々を背景に

盆地の閉じた土を、外の空気でかき混ぜる

荻原:最後に、東京で成功を収めた起業家が再び地方に向き合うことの意義について、メッセージをいただけますか。

澤登:一言で言えば、「MIX(ミックス)」、つまり「かき混ぜること」ではないでしょうか。
山梨は四方を山に囲まれた盆地という地形ゆえか、昔から「峠を越えて外へ出る」ことに対して心理的なハードルが高い傾向があります。そのため、どうしてもコミュニティが内側で完結し、閉鎖的になりがちです。

一方で、内側の結束力は非常に強く、現在も「無尽(むじん)」という互助の風習が色濃く残っています。中央道の「談合坂サービスエリア」も、かつて峠を越えた人々がそこで語り合ったことが名の由来だと言われています。こうした強い繋がりは素晴らしい美徳ですが、外に対して閉じてしまうのは非常にもったいない。

だからこそ、外の世界を知る人間が新しい情報を持ち込み、土を耕すように地域をかき混ぜてほしいのです。土壌が豊かになれば、人は育ち、交流はより活発になります。外の経験を持つ者が地元に関わることには、そうした「土壌改良」としての大きな意味があると考えています。

荻原: 故郷を担う次世代の方々へも、ぜひメッセージをお願いします。

澤登: 「一度は外の世界を見てほしい」と伝えたいですね。
「井の中の蛙大海を知らず」で終わるのではなく、大海を知った上で、また帰ってくればいい。場所は東京でもアメリカでも、どこでも構いません。外へ出て、自分の中に異なる価値観を取り込むことで、人は進化します。そうして「MIX」された経験を持って地元に戻ることには、計り知れない価値があるのです。

私の好きな言葉に、リクルート創業者の江副浩正さんの「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」というものがあります。自ら刺激的な環境へと飛び込み、自分自身をアップデートし続ける。そんな経験を持って帰ってくる人が増えるほど、山梨の土はもっと豊かになっていくはずです。

【編集後記】
今回、澤登さんのお話を伺いながら強く感じたのは、「社会性」と「経済性」は両立できるということでした。フレアスは、約500人の視覚障がい者を雇用する日本最大級の障害者雇用企業ですが、それは単なる福祉ではなく、「必要なプロフェッショナル」として戦力化している点に大きな特徴があります。実際に売上上位の施術者にも視覚障がい者が多く、事業成果にも直結しています。地域から全国へ、社会課題の解決を競争力へ転換し、社会価値と利益を同時に生み出す。その姿は、これからの時代に求められる経営の理想形だと感じました。
クロスメディアグループ株式会社
代表取締役 小早川幸一郎

【企画・制作】
クロスメディアグループ株式会社
ビジネス書の出版を中心に、経営者や企業のブランド価値を高める編集を手がける総合コンテンツ企業。取材を通じて経営理念や魅力を言語化し、書籍、Web、映像など多様なメディアで発信。

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